小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(6)



全文見た所、本人(和子さん)に確認がとれておらず、プロの筆跡鑑定も行われていません。元秘書の確認だけとのこと。重要な部分。
▲小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(5)

誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀

怪しい点は、現時点で下記参照

▲小沢一郎 週刊文春の手紙に不審な点 妻・和子は地元を離れ続けている

気になった点 裏取りが甘く見える

読む前に気になる点が4点。そもそも同じ内容の手紙を複数人に送るのかどうか。
後半に書いてある事が多いので、先に述べます。一度に文字が起こしきれませんので。

○小沢一郎さんの奥さんの名前が、和子になっている(署名はいつもそうなのか?)

○手紙後半に松田氏の取材経緯があるが、小沢一郎氏及び小澤(?)和子氏に裏をとっていない。小澤和子氏には、取材が行えていない。

○筆跡の確認は、元秘書とされる人物で、プロの筆跡鑑定ではない。

○支援者とされる人物も不明。手紙は本当に小澤和子氏、本人が送ったのか確認がとれていない。(1人の支援者とされる人物が電話したことになっているが、かなり断片的。もう1人は、手紙はきたとされるが、本人に確認したとの記述がない)。

本文

小沢一郎 妻からの「離縁状」全文公開
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 緊急特集 政局動乱

ジャーナリスト 松田賢弥+本誌取材班

放和子夫人の手紙を支援者はどう読んだか 松田賢弥

隠し子を養子にした愛人

いくつか、手紙の文面だけではわかりにくい個所を細くしたい。一つ目は「隠し子」についてである。

  <八年前、小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才を過ぎました>とある。

これがまさに私が「健太君」という仮名で四月末に報じた男の子のことだ。

実はもう一通の手紙には、<九年前>とあった。これが書かれたのが二〇十一年十一月とすれば、〇二年から〇三年にかけてのどこかの時点で、和子は隠し子の存在を知ったことになる。

寄しくも私は、前述した別居報道(三月二十九日号)でこう書いていた。

「私には、和子が自身の名義で小沢邸敷地内に別棟を立てた〇二年頃を境に、小沢と和子が自身の名義で小沢邸敷地内に別棟を立てた〇二年頃を境に、小沢と和子があともどりのできない程、冷え切った関係になったように見える。和子が水沢に姿を一切見せなくなるのもこの頃からだ」

東京地裁は昨年九月、小沢の元秘書三人に政治資金規正法違反で有罪判決を下した。その公判で、安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)の元女性嘱託職員が検察側証人として出廷したことがあった。その証言によれば〇二年三月、和子から電話でこう言われたという。

「現金を払い戻しするから、(深沢の)自宅に来て。私と息子の名義の預金を解約し、六千万円を払い戻してもらいたい」

この時、用途について別棟の建設費用だと和子は言っている。手紙を読んだ今思えば、隠し子の存在を知った和子が、小沢のカネに頼るのではなく、自分と息子のカネで、自分たちだけの城を作ろうとしたのではなかったか。登記簿によれば、その「城」が感性したのは〇二年十二月のことだ。

また、小沢の隠し子を養子として預かった愛人についても説明しておきたい。この女性は有名料亭の若女将だった裕子(仮名)で、これまで私は、幾度も彼女について言及してきた。

例えば、九十二年九月。金丸信元自民党副総裁の東京佐川急便ヤミ献金事件の処理に関する責任を取って、小沢が経世会会長代行の辞表を提出した頃のことだ。東京地検特捜部の捜査の手が、小沢にまで伸びるのではないかと言われていた頃のある出来事を、元側近が私にこう明かした。

「小沢先生に言われて、資料類を段ボール箱四~五箱に詰めて、裕子さんの住むマンションに運びました」

二人の関係は続いている。陸山会事件が起こってから、小沢支持者らが開いている勉強会がある。そこではごく少人数で、陸山会事件について様々な角度から話し合われているのだが、熱心にメモを取る裕子の姿が目撃されている。

和子との結婚前から四十年以上も続く異様な関係は知悉したつもりでいたが、その背後に、<一生毎月金銭を払う約束>があったとは驚きである。現在二十一歳の健太君を二歳半から裕子は預かっている。この約十九年で一体どれだけのカネが裕子に渡されたのか。

次に放射能を恐れる小沢の言動にも触れておきたい。

大震災以降、小沢がことあるごとに原発について言及してきたのは周知の事実だ。例えば昨年三月二十八日、達増拓也岩手県知事との会談後に小沢は、「原子炉の制御不能状態が2週間以上放置されるのは世界で例がない。最悪の事態を招けば日本沈没の話になる」などと語っている(「岩手日報」三月二十九日付)このような言動に違和感を持った人は少なからずいた。当時、ある岩手県議は私にこう不満を露わにしていた。

「小沢さんは被災地が逼迫した状態にあるのに、現地に行こうともせず、なんであんなに原発事故のことばかり語るのか」

昨年五月、私が陸前高田や大船渡などの被災地を尋ねた時の悲惨な光景が蘇ってきた。ある地元民が目に涙を浮かべこう語ったのだ。

「いまでも、田圃(管理人注記 たんぼ)の中がら泥だらけの遺体があがってくる。いちばん政治の力が欲しい時に小沢さんは何もしてくれながった。オラたちはよう、見捨てられたのがぁ・・・・・」

結局、小沢が初めて岩手の被災地に足を運んだのは、今年一月のことだった。

誰が小沢一郎を殺すのか?画策者なき陰謀


手紙

▲小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(1)

▲小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(2)

▲小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(3)

松田賢弥 取材過程

▲小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(4)

怪しい▲小沢一郎 週刊文春 松田賢弥記者 妻からの「離縁状」6月21日号 文字起こし(5)

(6)終わり (7)に続く

関連記事・:


0 件のコメント:

最近の記事も是非どうぞ