a nation大阪落雷事故後の動画写真分析 周辺に多数

a nation大阪落雷事故後の動画文字起こしと、写真分析を紹介。事故直後と思われますが、1つのスタジアムに数万人の人間が入りますので、会場外にいた人間の多さが分かると思います。言い方を変えれば、誰が被害者になってもおかしくなかったのではないでしょうか。

追記)二度目の落雷は、グッズ売り場の『のぼり』に直撃

二回目の落雷について 人間が密集

▲a nation大阪長居公園落雷で死者 現場写真と原因はエイベックスの商売優先

上記の画像、消防車と救急車がある位置は、2回目の落雷があった現場近くですね。画像を見ると明らかですが、1回目と2回目の場所は離れており、消防車があるのも不自然です。

従って、2回目の落雷があった付近の画像ですね。人間が密集しており、誰が落雷の被害者であってもおかしくなかったことが分かると思います。

動画 文字起こし

(下記、動画は数日経つと非公開になると思われます)



 音楽イベントの開演を待つ人たちで混雑する大阪の長居公園で昨日(18日)起きた落雷で、今朝(19日)、新たに22歳の女性の死亡が確認されました。

 昨日(18日)午後2時から3時ごろにかけて、大阪市東住吉区の長居公園で落雷が2回あり、10人が病院に搬送されました。このうち、福岡県行橋市の会社員・木下晴日さん(22)が死亡し、意識不明の重体だった福岡県北九州市の会社員・岩永牧子さん(22)も今朝(19日)、新たに死亡が確認されました。ほかの8人は軽傷です。

 目撃した人
「ピカゴロドッカーンという感じ。まさかそこに落ちていると思わなくて、3人倒れて2人はもう全然応答なし」

 落雷当時は音楽イベントの開演前で、木下さんと岩永さんは2人で会場に行く途中、樹木の下で雨宿りをし、雷に打たれたとみられます。


気になる指摘事項

yuzupon_panda
(@yuzupon_panda)

2012/08/19 22:22:30
from Tweet Button
東京新聞朝刊。長居公園の落雷の件。【府警によると、二回目の雷は野外ライブのグッズ売り場にあるのぼりに落ちた】と書いてありました。ライブ主催者名無し。 エイベックス大阪長居公園ライブ落雷で死者 主要マスコミ隠蔽 産経が一番酷い理由の画像
 http://t.co/HS6DKHCP

気になるのは、上記の指摘。野外ライブのグッズ売り場の、のぼりに落ちたとの指摘です。二回目の落雷ですから、事実であるならば運営側は、落雷のリスクを下げるために、のぼりを下げるなど、何らかの対処を行うべきであったのでしょう。

上記の写真を分析すると、落雷事故後、少し後と思われますが、会場付近に人間が非常に多いことが分かります。まだ会場に人間が入れておらず、二度目の落雷現場付近の様子ですので、15時過ぎから17時の間の時間帯でしょう。


時系列のまとめ



一度目の被害者

○午前11時 グッズ販売開始
    ↓
午後2時15分 長居公園で20代女性4人倒れている 2人が心肺停止

○○木下晴日(きのしたはるひ)さん22歳 心肺停止←ライブに向かう途中
    ↓
午後6時58分 死亡 
○○北九州市 女性重態 22歳←亡くなったことが判明(8月19日)
    ↓
北九州市小倉北区の岩永牧子さん

公園内の第2陸上競技場南側の植え込み付近に落ちたとみられる。
    ↓
第2陸上競技場では出場アーティストのグッズ販売(11時から開始)

二度目の被害者 防げたのでは

午後3時5分 別の場所で男女6人を病院に搬送 落雷の影響あり
    ↓
・EXILEなど人気アーティストの野外コンサートが予定されていた長居陸上競技場南側のブース付近にも雷が落ち
【追記】・二回目の落雷は野外のグッズ売り場『のぼり』に直撃
▲a nation大阪長居公園落雷で死者 現場写真と原因はエイベックスの商売優先
    ↓
○午後3時12分参加者つぶやき 予定通りと考えていた
    ↓
○午後3時30分 開始予定時刻
    ↓
○午後4時公演時間の変更を発表
    ↓
○午後4時40分に公演時間を変更

亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、avexはHPや記者会見を行い、詳細を早く説明すべきではないでしょうか。それとも、会場外なので関係ないというスタンスでしょうか?

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7 件のコメント:

通りがけ さんのコメント...

「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう!

   こどもの原爆被爆体験詩集『原子雲の下より』の序文に寄せて
       峠 三吉 
   (未発表遺稿から下関原爆展事務局書き起こし文に≪加筆≫)

////////////////////////////////
すべての声は訴える


青空に雲が燃えていたら
アスファルトの道路が 熱気にゆるんでいたら
雑草や埃(ほこり)の匂いが風に立ちこめていたら
戦後七年
決して明るくなってゆかぬ生活の疲労の中で
広島の人々は
ふとあの悲惨な日々の感覚に打たれることを
炎の中の瓦礫(がれき)の下の呼び声に憑(つ)かれることを
訴えどころのない憂憤(ゆうふん)に ひそかに拳をふるわして耐えていることを
此(こ)の詩集を手にするあなたに知ってもらいたい

それは決して遠い記憶ではない
今、眼に映っている対岸の建物の壁が
突然破れ、瓦がはげ落ち
頭脳の奥で閃光(せんこう)がひらめいても
それは決して新しい事件に遭遇(そうぐう)したのではなく
それは
自分の生きようとする正しい力が
何か巨大にして非人間的な圧力によって
遂(つい)にうち負かされてしまったのだ という絶望感で
受けとられるものにちがいない

此の詩集を読もうとする多くの人に知ってもらいたい
広島の、そして長崎の人間は
原爆の炎の中から脱出して起ち上がろうと努めつつ
その意味する欺瞞(ぎまん)的な力の中で
まだ必死にもがいている
もがいていながらも
私たちは
あの炎と血膿(ちうみ)のしみついた皮膚の感覚で
愛する妻子や父母を茸(きのこ)雲の下で見失った
涙にまみれた体で
今はもう知ろうとしている
原爆を戦争に直接関係の無い老若男女の日本人の上に投下し
その後にわたってその所有を独占しようとし
その脅威(きょうい)をふりかざして
世界を一人占めにしようとして来た意志
日本が侵略されるという囁(ささや)きを吹き込み
再軍備にかり立て
そのような政策に反対する国民の口に破防法(はぼうほう)という
猿ぐつわを噛(か)ませる意志が
すべて一つのものであるということを
もうはっきりと知ろうとしている
そして
此の詩集をお読みになるあなたも
きっと知るにちがいない
私たちが一個の人間として
正しく幸福に生きようとするねがいを
何時(いつ)の時代でも 常にはばんで来たものがあったとすれば
その力こそまさに此の暗い意志であり
その権力こそまさに
私たちを戦争にひきずりこむものであったということを

噫(ああ)そして 私たちは知ることが出来る
世界最初に原子爆弾を頭上に落(おと)された日本人だという
黄色い皮膚にかけて
漆黒(しっこく)の瞳(ひとみ)と流れる黒髪にかけて知ることが出来る
今はもう
戦争を、その物欲と権力保持のために欲(ほっ)する
一握りの、人間と呼ぶに価(あたい)しない人間以外の≪ものたちへむけて≫
世界中の
真実と労働を愛するすべての人々と共に
腕を交(く)みあって
平和へのたたかいを進めてゆくことこそが
私たちの正しく幸福に生きようとする
人間としてのねがいを
達成(たっせい)する唯一(ゆいつ)の道であるということを
私たちは日本人として
植民地支配に苦しんで来た
アジアの人間として
知ることが出来る

そのために
そうだ、それを信じるために
多くの語り難(がた)い苦痛を越え
多くの語ることによる危険をしのぎ
老人も主婦も、未亡人も、青年も
又、勇気ある教師にみちびかれた子供達も
すべての人々が
血と涙にいろどられた叫びを
此の詩集に寄ってあげているのだ
どうか
此の信頼と愛が
戦争を憎み 原爆を呪(のろ)う無数の声の中で
大きな稔(みの)りを持つように
その声の底にかくれつつ 永遠に絶(た)ゆることのない
地下からの叫びが
生きている私たちの力によって
癒(いや)されるように!
原爆が再び地上に投ぜられることなく
原爆を意図するものが 世界中の働く者の力によって
一日も早く絶滅されるように!
此の詩集はそのためにあなたにおくられるのだ

一九四五年八月六日、午前八時十五分
広島に世界最初のウラニュウム二三五爆弾が投下され
九日 午前十一時
長崎にプルトニウム爆弾が投下された
広島では全人口四十万のうち
二十四万七千の生命が奪われた
軍事的には
勝負をそれのみで決しうるほどの力はでないといわれる
原子爆弾が
なぜこのような悲惨な現実を呼び起こしたか
落とされた広島は
無防備の市民の上であったし (長崎では市街に近い宗教地域の上であった)
落とされた時間は
市民をまるで屠殺場(とさつじょう)のように中心部に集めていた
それらはすべて
見事に計画されていたといえる
あの茸(きのこ)状をした雲の下には何があったか
そこにあったのは
疎開(そかい)できぬ児童を集め、あるいは勤労奉仕に生徒を集めた学校、陸軍
 関係のみでも五万人の患者を収容していた病院、青年の出払ったのち堆積(た
 いせき)する事務に追われていた官庁、銀行、聖戦の勝利を祈らされていた教会
 、主人をとられ主婦と子供で守っていた商店であり
それらはすべて破壊されたが
炎の海の外側にあった
多くの軍需工場は
 (三菱造船、三菱重工、旭兵器、日本製鋼、兵器被服廠-西条・八本松へ疎開
 -東洋工業、油谷重工等)
窓、扉、天井が破壊された程度で
殆(ほとん)ど無傷であり
国鉄は三日間でその機能を回復した実状であった
その炎の海で死んだのは
勤め人、学生、小児などの老若(ろうにゃく)市民であり
兵隊にしても
すでに出しつくされたあとの力弱い兵隊であった

つづく

通りがけ さんのコメント...

一九四五年の春から夏にかけて
日本中の都市が夜毎(よごと)に焼きつくされる
戦争の炎の前で
広島はあわれな生きもののように顫(ふる)えつづけていた
今夜こそ危ない
今夜こそ焼かれる、という噂(うわさ)
あるいは広島は水攻めにするのだというような噂によって
夜闇(よるやみ)にまぎれては逃げようとする市民、橋の畔(ほとり)にひかえて
 逃がすまいとする軍や自衛隊≪原文まま≫
飢えた隣組(となりぐみ)の行列の間(あいだ)を
野菜を満載した軍のトラックが走りすぎる混乱の中で
河が白く埋まるほど、七月末 空から撒(ま)かれた七種類のビラには
原爆の廃墟(はいきょ)と同じ絵が描かれてもあったが
すでに疎開のすべはなく(そのビラを持っていると死刑にすると脅され、警察が
 人をやとって船を出し、拾い上げて焼却させた)
それでも五日の夜、広島をいよいよ焼き払うと
ビラが落とされたという
二、三日前からの噂によって
市民の多くは周辺の山や畑に逃(のが)れ、濃い闇空の銀河のもと
不安な一夜を明かした
夜半、豊後水道より広島湾上空へ
二百のB29は侵入し旋回数十分 広島を襲うと見せて
突然進路を西南方へ変え
光市の方面へ飛び去った
明け方 空襲警報は解除され
県内に侵入している敵機は四機、そしてやがて離脱したと
ラジオは報じ
七時五十分、警戒警報も解除された
この時、市民はB29の爆音をきいたが
黒めがねをつけた米人の乗員が
人類の恥辱(ちじょく)をのせた三機によって
高々度より侵入しつつあった事を誰が知り得たろう
そして今夜も無事に済んだとほっと安堵(あんど)した人々が
家に帰り、急いで朝食を済まし(朝食の炊事の火はまだ消えるほどの時では
 なかった)
出勤者は仕事場へ、学生、生徒は学校から作業場へ
隣組は市の周辺町村から市の中心部へ
畑仕事をやめて松根掘りに日をあかしていた郡部からの義勇隊もそれらと一
 緒に市の真ん中へ・・・・・・
それは統計ではかり出したように
一日の中で最も多数の市民が屋外に溢(あふ)れている時間であった

此の広島という都市の、雛鳥(ひなどり)のような中心部
この選ばれた時間
広島はどんな無心な表情をしていただろうか
爆心直下の広島中央郵便局では(本局とよんでいた)
丁度(ちょうど)夜勤と日勤者の交替時(どき)にあたり
全員六百名が 古めかしい煉瓦(れんが)造りの建物内に充満し
一人の老小使いのみが
玄関わきの塵溜(ちりため)にごみを捨てに出ていたところだった
七、八百米(メートル)東北方の練兵場では
丁度その朝入隊した男たちが(中年の兵隊か一度病気で帰り再度招集された
 ものたちであった)
軍服をつけて整列し
見送りの家族が旗などをもって
名残(なごり)を惜しんでいる時だった
千米はなれた県庁では、防空当直二百名が帰宅し
他の庁員が出勤し
動員学徒の少女たちが掃除バケツをもって廊下を
歩いていたとき
約千五百米の市役所裏 雑魚場町の一帯では
県立高女、県立一中、私立二中、女学院高女、女子商業、その他の一、二年
 生が教師に指揮されて疎開家屋のあと片付けに
とりかかっていたところ
又同所、あるいは同じ距離の土橋町一帯では市近辺よりの隣組、義勇隊の老
 人や子どもを背負った主婦たちが
同じ仕事にとりかかろうと集合して汗を拭(ふ)いていたときだった
二千米はなれた横川町の狭い商店街は郊外より
市内へ出勤する人の群(むれ)で埋まり
三千米はなれた家庭では作業へ、あるいは職場へ
家族を送ったあとの年よりが幼児が
朝食のあと始末に働こうとしていた

ああ そのような
戦争の末期の不安のなかで
常に天皇を頭(かしら)とする権力者たちの意のままに
父や夫や息子をさし出し
ダイヤも金も、あらゆる財産を投げ捨て
ぼろをまとい大豆を囓(か)じり野草をたべながら
従つてきた国民が
その愚かなほどに無心の表情を
八月の青空にむかって曝(さら)していたとき
TNT二万トン爆弾より強力な
グランド・スラムの二千倍以上の爆破力を有する
そしていまや
太陽の力が源泉となる勢力が(八・六トルーマン声明)(二〇〇〇呎(フィート)
 直下の温度は摂氏三〇〇〇~四〇〇〇度-ロスアラモス科学研究所「原子
 兵器の効果」より。トルーマン大統領がいかにもやさしくヒルダと呼んだ)
上空五百米(メートル)に於いて放射されたのである
大部分の子供達が此の詩集の中で
「ピカッー」と光ったという印象を伝えているほど
この時の光線の印象は強烈なものであり
体験者たちは
赤・紫・白・黄・紺色・橙(だいだい)色だったと様々な感じを伝えているが
その強烈な光りは
それを直視したすべての人の視力を奪い
その瞬間から広島の悲劇は始まったのである
中央郵便局は未曾有(みぞう)の衝撃を真上から浴びて瞬時に倒潰し全員死亡
老小使いのみ一人生き残っていたが二、三日後に死亡し
練兵場の一隊は全部赤剥(む)げになったり
半裸で作業中の兵隊はみじめであった
真黒く炭化したりして散乱した(軍関係の死亡者は一二五、八二〇人と算出され
 ている)
県庁で圧殺(あっさつ)をまぬがれた人々は水を求めて河岸へ
いざり寄り
万代橋の西詰では二日後まで死体の山が
河底から土手より高く重なって盛り上がっていた

疎開家屋のあと片付にとりかかっていた中学校、女学校の
下級生徒たち、又それを引率指揮していた先生たちの
最後の模様をどのようにつたえたらよいだろうか
思い思いの服装に新しい麦ワラ帽をかぶったり
歌を唄いつつ友人とふざけあったり 作業場に到着した
すべて十三、四才の少年少女たちが
突然の(不意の)閃光に出あい 打ち倒され
煙のはれ間やっと起き上がったものは
すでに花のようなもとの姿は奪われて
頭髪は焼け、前日に黒く染めた着衣は焦げ飛び、皮膚は剥(は)がれて肉が露出
 し 顔はふくれた
降(ふ)りくる石や材木に打たれた傷は石榴(ざくろ)のように口をあけて
その場で死んだものの骨、水槽の中に教師に抱かれて死んでいる死体
母を呼び 教師を呼び
歩けぬものは腹這(はらば)って比治山方面へ逃れて行く
土橋方面の隣組は多くが火傷(やけど)の傷手(いたで)と焔(ほのお)に追われ
天満(てんま)川に這い降りて水に流されたらしく この辺りの消息はよくわからない
家庭の悲惨も同じであった
瞬時に倒潰(とうかい)した家屋の間から 焔に包まれる最後まで
助けを求めて掘られた腕(倒壊した家の下敷きになった子供を救ってくれと哀訴(あい
 そ)する母親の必死の顔付(かおつき)は、長く忘れる事が出来ない)
熱いよう熱いようの 細々とつづいたよび声は遂にとだえても 助けの力を得ることなく
広島全市が焼けはてて骨となっても
骨のひらい≪拾い≫手さえ帰って来ない
此の時 たつ巻をよび風をつのらせる炎の上、市の西北一帯に真黒い豪雨が降り
己斐(こい)の山上にしばらくかかっていた虹の色は生き残った人々の記憶につよく
 残っている

夜に入っても全市の炎は明々(あかあか)と空を焦がしている
このとき市の周辺の町村の
病院、学校、お寺、個人の家などには
逃れてきた人々が折り重なって倒れ
次々と口鼻から血を吐いて死んでゆきつつあった
 (義勇隊を送った部落は軒並(のきなみ)に二人、三人死に、探しにゆく。葬式を出す。
 怪我(けが)をして帰ってくる割当の罹災者はなだれこんで眼も当てられぬ光景)
看護の婦人会など夜になると恐怖のために逃げ帰る程だった
こうして即死したものは骨とドクロになり(一中の焼跡にはドクロが机の配列の通りに
 並んでいて手に取ろうとすると灰となって崩れた。中心部では骨も何も無い)
火傷のものは一週間から八月中旬までの間に
膿(うみ)と蛆(うじ)にまみれたまま次々と死に
九月頃 無数の蝿(はえ)が発生した
八月二十日頃より原爆症が始まった
体に無疵(むきず)のものが髪がぬけ 急に下痢(げり)、嘔吐(おうと)、発熱し
口からの出血は止まらず 全身に斑点(はんてん)が現れ死亡する
この手のほどこしようもないこの症状が
生き残った人々の上を襲った(ひどいものは白血球が五百まで減少した。健康体で
 七千~八千、一千以下では生命が危ない)
薬品類はすでになく
栄養を、新鮮な果物を、といってもこの時国民の誰が
それらを手にし得(え)よう
このような時でさえ一部の病院では
金のあるものは あたう限りの治療をうけ
身よりも金もないものは形ばかりの治療で放置された
そして一方火傷の人々は
幾度(いくたび)皮膚が貼っても又その底からの膿(うみ)で破れ
その苦痛は自殺を欲(ほっ)する苦しみ

つづく

通りがけ さんのコメント...

このような中で死ぬものは死に 残るものは残ったが
戦後七年間の歩みの中で
この原爆の影響がどのように尾をひいているか
東雲(しののめ)付中≪附属中学≫で生徒たちに「生い立ちの記」を書かせたら
殆ど全部のものが原爆のことにふれていたというほど
広島の人々の間にしみ通っている原爆が
ケロイドにより原爆症により いかなる被害を及ぼしているか
広島の中心地にいる人は体験者が殆んどいない、
それは大抵(たいてい)の家が一家全滅してるからだ
あの驚きのために気のふれた(健忘性失語症)子供
馬鹿になった(記憶喪失)青年
治療ののぞみない体に絶望のあまり自殺をしようとするもの
それらの悲しみと苦悩は
すでに今迄(まで)の年月の間で耐ええぬものは死に
耐えうるものは踏みこえて来たものの
顔面のケロイドのために平常は家にひきこもり、八月六日の命日のみには
爆心地の供養塔に参りにゆく姿の見られる娘さんたちの
胸に秘めた涙は何によって慰められる事が出来よう
又 詩の中にもかかれているように 禿(はげ)よ禿よとけいべつされる
子供たちの悲しみを誰が癒(いや)してやれようか
しかも 七年たった
現在でも尚(なお)、「原爆の子」の伊藤久人君が今春死亡したように
原子爆弾症は継続して起こりつつあり 戦後現在まで
全く何ともなかった者が急に白血球の減少 又は急増(きゅうぞう)を来(きた)
 して死に瀕(ひん)しつつあること
又 遺伝的悪影響が科学者(ハックスレ-)によって説(とな)えられ
ワシントン二二・三・十六発AP共同は米陸海軍軍医ならびに
科学者からなる原子爆弾の被害調査委員会が、広島および長崎の爆撃生存
 者について医学的調査をつづけて来たが、二十六日生存者の間から数名の
 奇形児が生まれたことを発表した。但し原爆が直接の原因であるとの確証は
 まだあがっていない(毎日三・二八)
と報じられるようでは
一体どうなるであろう
そして又 それらはすべて治療の方法がなく、その見通しさえないとしたら
又落(おと)された時どうなるのであろう
原子爆弾の使用されぬことを
再び戦争の起こされぬことをねがう必死の声は
この苦悩の中から叫び出されているのだ

一九四五年 ドイツの降伏後三ヵ月でソヴェートは日本に宣戦すると決まった
 ヤルタ会談が二月に終り、四月一日米軍は沖縄に上陸
同≪四月≫五日小磯内閣は退陣
同日モロトフ外相が、日ソ不可侵条約の不延長を通告して来た
五月八日ドイツはついに無条件降伏をしたが
ソヴェートの戦力消耗を待つように、第二戦線の形成をおくらし≪遅らせ≫て
 いた米英がスターリングラードの反撃より急に赤軍が攻勢に転じると、作戦
 上の無理をおしつつ イタリーやノルマンディーに上陸し、ベルリンの争奪戦
 が行なわれる
そのような中で
日本の戦力もすでに打ち滅(ほろ)ぼすべき敵ではなく
早く飼いならして次の相手に
使用すべくねらわれていた
然(しか)も日本の財閥と軍閥はそれを知って、国民を本土決戦の叫び声の中
 においやりながら(君が代をうたい、「日本は勝ちますね」と先生に死の前に
 ささやいた女生徒〈進徳高女〉のようなものはどこにでもいた)
天皇制を保持(国体ゴジ≪護持≫)しながら戦争を終えるケイキ≪契機≫をつ
 かもうとねらっていた
二人の客に媚(こ)びを売る女のように
前総理大臣広田をソヴェートに当たらせ
横浜銀行スイス代表者にアメリカ実業団との交渉をさせようとした
六月二十一日 沖縄での日本軍の組織的抵抗は終り
七月十六日 ニューメキシコで世界最初の原子爆発が行われた
その翌日ポツダム会議開催
二十六日同宣言発表
すでに八月八日にソヴェートが対日宣戦布告するのは明瞭であるし
そうなれば赤軍がいかに短時間で日本に到着するかは
充分予測される
このような中で
「何故原爆を使用するなら、連合国主催の実験でその威力を示しその基礎に立
 って日本に最後通牒を発し、責任の負担を日本人自身にゆだねなかったか」
といい
この詩集の中で子供たちが
「なぜ広島に落したか」と責め
「どうせ落るなら砂漠におちろ」とうたっても
「もし原爆投下の目的がロシアの参戦前に日本を叩(たた)き潰(つぶ)すことに
 あったとすれば、ないしは少(すくな)くともその目的が日本の崩壊(ほうかい)に
 先立つロシアの参戦をして名ばかりの参戦に留(とど)まらしめることにあったと
 すれば・・・・・・」
そのようなことは時間的にも
又そうでなくとも考えられなかったのである

こうして八月六日、広島の上に原子爆弾一号は投下された
そうして八月九日、ソヴェート軍が満州国境より急速力で
南下しはじめた朝、長崎に二号が投下された
かくして十四日
日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)し
終戦の詔勅(しょうちょく)が出された
その中で天皇は
「加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所 真ニ
 測ルヘカラサルニ至ル」といわれている
K・T・コムプトン博士は「原子爆弾の使用がアメリカ人、日本人の数十万-おそらく
 は数百万の生命を救ったという確固たる信念をいだくに至った」
とのべ
とにかくこれによって
日本は降伏し 米国は一挙に日本を占領し
日本の天皇と財閥、軍閥はその力を保存したまま国民の前に
戦争をやめるいいわけを得たかたちとなった

そうしてこのことがその後(のち)効果をあげるために
どんなに言いひろめられたかを見るのは興味深い
先ず 原子爆弾の絶対的な威力をつたえる言葉が流布(るふ)された
「この威力 正に火薬二万トンに匹敵」(中国二〇・八・一五)
「今後七十年は棲(す)めぬ-戦争記念物広島、長崎の廃墟-」(毎日二〇・八・二四)
「死者なほも続出」(朝日二〇・八・一三)
「広島の被害世界一」(中国二〇・九・四)
そして永(なが)く原爆のことを書くことが禁止されていた
この恐怖とともに
原爆こそ日本の救い主だった、感謝すべきだ
原爆は平和をもたらしたものであり、広島の犠牲者は
平和のための殉教者(じゅんきょうしゃ)のように扱われ、家族を失った人々は
それをもって諦(あきら)めようとした
諦めさせるには広島が真宗(しんしゅう)の伝統的地盤であるということは
もって来(こ)いであったし
長崎もカトリックの地盤、しかもわざわざ信徒たちの居住地の上に落としたのも
 意味のない事ではないと思われるのだが(医科大学、養育院、天主堂のある
 町はずれの地区)
かくして「ノーモア-ヒロシマズ」が叫ばれ
片方でアメリカを美化し
片方で広島では平和を売り物にすることとなった(広島平和記念都市建設法案が
 二四年めでたく議会を通過する)
毎年の八月六日 爆心地の平和塔の前で市が主催する平和祭は、花火をうちあげ
 鐘(かね)や鳩(はと)や展覧会や踊りの大会と賑(にぎ)やかにくりひろげられ、五人
 の孤児たちが父母に再会しようと少年僧になったことがもてはやされ、ミス・ヒロシマ
 が長崎の土をはらはらふりかけたりするが、生き残った人々の根深い反発を受けた
しかし一九四九年、ソヴェートの原爆所有が明らかとなり
一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が始まってより
その声が変化してきたのを私たちは知っている

今までの悲惨さによる威嚇(いかく)から(水素バクダン!)
原爆の記憶を抹殺(まっさつ)しようとする動きに変わってきた
原爆広島の象徴(しょうちょう)になってきた産業奨励館のドームを崩し
原爆娘は戦犯(せんぱん)を慰問(いもん)させられ
原爆一号といわれる十六回の手術を繰り返したK氏のケロイドの体も日赤から追放し
一方、精神養子の運動が行われ
広島の廃墟と魂(たましい)の傷痕(きずあと)を緑の芝生と植民地的文化によって
埋めつくそうと変わってきた
再軍備は原爆投下の意味の延長であり
その中ではすでに戦争を否定(ひてい)する平和の声は弾圧(だんあつ)される
 (一九五〇年の官制的なものも平和祭の全面的禁止!)
そして一九五一年の八月六日の式典には朝鮮戦線からの
パイロットが参列し
広大学長は戦争を肯定(こうてい)する平和をとなえる

この中で誰が沈黙(ちんもく)していられるだろうか
広島の 長崎の
いや日本人としての私たちがどうして黙って居(お)れようか
この詩集の中で大人たちは「死ぬ前でないと本当のことはいえぬ」
という叫び声をあげた
子供たちは真向(まっこう)から戦争と原爆反対の声をはり上げる
この仕事の中で結ばれた子を失った主婦は、夫を失った未亡人は、ケロイドの娘は
共(とも)に立ち上がって原爆を落としたものに対し「つぐないを!」
と叫ぶ
流された血はつぐなわれねばならぬ
しぼられた涙は拭(ぬぐ)われるべきだ!
しかも未(いま)だ この詩集に現れたものの何倍、何千倍の声が
心の奥に秘(ひ)められているならば!・・・・・・

/////////////////////////////////

戦争と原発事故は人災の極致でありともに地球に対する最悪の犯罪である。すなわち核兵器と原発は同じものである。

峠三吉は36歳で死去したがこの世の戦争のすべてを見通して子供たちのためにこの詩を遺した。

この詩に書かれた自分の物欲や征服欲支配欲を満たすために戦争を起こして他人を殺戮することを何とも思わない人間と呼ぶに価しない人間以外のこのようなものたちをこれ以上この世に作り出さないために、

「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう!

すべての子供たちを心正しく育てることこそが人間に天与された使命である。

通りがけ さんのコメント...

「すべての声は訴える」

戦争と原発事故は人災の極致でありともに地球に対する最悪の犯罪である。すなわち核兵器と原発は同じものである。

峠三吉は36歳で死去したがこの世の戦争のすべてを見通して子供たちのためにこの詩を遺した。

この詩に書かれた自分の物欲や征服欲支配欲を満たすために戦争を起こして他人を殺戮することを何とも思わない人間と呼ぶに価しない人間以外のこのようなものたちをこれ以上この世に作り出さないために、

「すべての声は訴える」を全世界の子供の教科書に掲載しよう!

すべての子供たちを心正しく育てることこそが人間に天与された使命である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして「すべての声は訴える」

まず東電管理職吉田福一原発所長は現場最高責任者として冷却停止直後に最優先で消防署へ住民待避要請を出さねばならなかった。
菅総理は国の最高責任者指導者としてただちに放射能非常事態宣言を全国民に対して発令しなければならなかった。

この二つの大罪は懲役数十万年に相当する地球への破壊テロ犯罪である。

余の者米軍国会議員霞ヶ関全省庁奇形司法NHK電通記者クラブマスゴミはすべてこの戦争非人道犯罪と同じ棄民テロ犯罪の国内証拠隠滅犯行にかかわっており共謀共同正犯である。

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>>http://fujifujinovember.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-ee0b.html

匿名 さんのコメント...

a-nation落雷事故の裁判
意 見 陳 述 書

大阪地方裁判所第3民事部合議1係御中
平成25年10月7日
原 告 岩 永 浩 美

1  提訴に至った経緯
平成24年8月18日(土)私達の娘・岩永牧子(年齢22歳)は、当日朝から楽しみにしてい野外ライブを見に行くため、北九州市(小倉駅)から新大阪に着き、その後、地下鉄に乗り ビジネスホテルで荷物を預け、近くのラーメン店で食事をし、地下鉄に乗り13時30分開場時間を目標に、会場である長居公園に向かいました。娘は地下鉄から降り、公園内に入り行列に並んでいましたが、その時、落雷事故に遭い、心肺停止となりました。落雷事故が発生した時間は、14時10分頃から14時15分頃までの間だったそうです。
当日 私達夫婦に連絡が入ったのは病院側からの連絡で、15時36分頃でした。それから私と妻は、北九州市から大阪市内の病院へと向かいました。
私達が到着したとき付き添いが誰もいないことに愕然としました。病院からは、心肺停止の場合は速やかに対応しないと命に係わる、早い段階でAEDを当てていれば命は助かった可能性が高かったと言われました。
翌19日の朝、娘は尊い命を失いました。それから警察の担当者から事情説明があり、娘の解剖検査行うため管轄の警察署へ遺体を搬送するとの事で、私達も警察署へと移動しました。到着後、控室で待っている間、担当警察官から事故現場 へ行かれますかとのお話しがあり、私達は事故現場へ行きました。現場に到着すると、私達は人の多さに目を見張りました。警察官に尋ねたところ、ライブは何事もなかったかのように二日目も予定通り開催するとの事で私達は、驚いて警察官に主催者側に会いたいと申し出ました。なぜ、中止にしないのか納得がいかない状況でした。警察官から主催者側に会ってほしいと頼んでもらいましたが、警察官からは出来ないとの返事がありました。そこで仕方なく警察官から主催者側の方に連絡してもらい、私達に連絡をくれるように、お願いしてもらいました。
解剖検査が終わり、私達が北九州市に戻ろうとした時、地下鉄で主催者側から連絡を受けました。時間は16時50分頃でした。その時私は連絡をしてきた主催者側の人に事故の対応はどうであったのか確認をしましたが、主催者側は万全な対応をしたと言うだけでした。
主催者側は、午前中から雷注意報が発令され、実際にゲリラ豪雨に見舞われたにもかかわらず避難誘導等何らの対応もしていません。行列に並ばせているのに、何ら対応していない事が、私達は納得できませんでした。その後、自分たちで調べて行く中で、救急車の要請も主催者側からではなく一般の方からの通報であり、主催者側は事故現場で一切何の対応もしていないことが分かりました。二人の尊い命が失われているのに野外ライブを決行していることにも納得がいきません。事故発生から2週間後にも、私達から主催者側に連絡しましたが、娘の事故のことは、「競技場を借りただけで競技場外は関係ない」と言われました。そのためこのような経緯から主催者側の責任を明らかにしたく提訴に踏み切った次第です。

2   娘への思い
娘は、生まれて間もない頃から健康で明るく活発で、小学校の時は友達も多く また、優しい娘でありました。中学3年生の高校受験の時は、自ら推薦を学校担任に申し出、合格しました。また、高校の時は、卓球部に所属し、3年間最後までやり遂げました。そして1級簿記・電卓1級を取得し卒業しました。高校卒業時は、私達と相談し、就職するか大学まで行くか悩んだ末、きちんと奨学金を借り、短大を卒業しました。私達は、娘の行動を陰ながら応援していました。その後、整形外科の事務として就職し、約2年5ヶ月事務職及びリハビリ担当として仕事を頑張っていました。預金も170万円ありました。幼稚園から短大までの友人を凄く大切にし、そして、いつも友達から悩み事を相談されていました。友達のお誕生日にサプライズをする事が大好きで、友達を感動させ喜ばれていました。私達は改めて娘の存在の大きさを知り、偉大な娘であったと実感しました。
娘も今回の事故は、納得がいかないと思います。本当に悔やまれます。

3 被告に伝えたいこと
被告ら主催者に伝えたいことは次の6点です。
U+2460カラーコーンを並べて入場者を並ばせているのに、なぜ十分な警備体制を取っていなかったのか
U+2461なぜ、救護本部で医師及び看護師が待機しているのに、なぜ事故発生後何も対応しなかったのか。
U+2462娘はエグザイルのスポーツタオルを身につけて倒れていたのに、なぜ事故発生後何も対応しなかったのか。
U+2463なぜ、野外ライブを中止しなかったのか。
U+2464なぜ、競技場外を関係ないといえるのか。
U+2465事故の翌日2日目のライブではなぜ、カラーコーンを撤去したのか

4 この裁判に望むことは
娘の事故は、今後も野外ライブに於いて有り得る事です。二度と同じ悲惨な事故が繰り返されないためにも、この裁判において、主催者側が誰が何をすべきであったのか、何が不十分であったのか、その責任の所在が明らかにされることを望みます。そして、今後の野外ライブでの警備体制、避難誘導体制等の見直しがされることを望みます。5万人以上の人が集結する場所では、実際にコンサートが行われる競技場内だけではなく、行列が出来る競技場外でも完全対策は万全にすべきだと考えます。
以上

     岩永牧子の母 岩永和子

岩永 さんのコメント...

大阪地方検察庁ヘ刑事告訴致しました事をご報告致しますね。
告 訴 状       2017年8月16日
大阪地方検察庁 御中
告訴人   岩永 和子 ㊞
一、 当事者
福岡県北九州市小倉北区宇佐町二丁目4番3号    告訴人  岩永 和子
東京都港区六本木一丁目6番1号泉ガーデン30階 被告訴人  エイベックス・ライブ・クリエイティブ株式会社 代表取締役 黒岩 克己
大阪府大阪市北区中之島二丁目3番18号中之島フェスティバルタワー3階   被告訴人 株式会社ミューベンツ・ジャパン 代表取締役 佐藤 浩史
大阪府大阪市西区九条南一丁目12番54号     被告訴人 大阪市消防局 2012年8月18日当時の大阪市 消防局長
大阪府大阪市東住吉区東田辺二丁目11番39号              被告訴人 大阪府警察 東住吉警察署 2012年8月18日当時の大阪府東住吉警察署長
大阪府大阪市中央区法円坂二丁目1番14号     被告訴人 独立行政法人国立病院機構大阪医療センター2012年8月18日当時の独立行政法人国立病院機構大阪医療センター長
二、告訴の趣旨
告訴人は        ① 被告訴人 エイベックス・ライブ・クリエイティブ株式会社及び株式会社ミューベンツ・ジャパンを「未必の故意による殺人罪(刑法第199条)    ② 被告訴人 大阪市消防局長及び東住吉警察署長を「保護責任者遺棄等罪」(刑法第218条)
③ 被告訴人 大阪医療センター長を「殺人罪」(刑法第199)で告訴ます。
三、 告訴の原因
(一)事実 
① 告訴人は、亡き岩永牧子の母である。     ② 岩永牧子は、2012年8月18日、被告訴人 エイベックス・ライブ・クリエイティブ株式会社及び株式会社ミューベンツ・ジャパンが長居公園(大阪市東住吉区)で開催する音楽会に参加した。会場は13時30分に開場され、15時30分から公演が始まることになっていた。
③ ところが14時少し前から、雷が鳴り出し、雨が降り出した。すると、それまで客を指示、誘導していた被告訴人 エイベックス・ライブ・クリエイティブ株式会社及び株式会社ミューベンツ・ジャパンの係員等は、いち早く逃げ出し、誰もいなくなってしまった。
④ 猛烈な雷雨の中、約5万4000人の客は、ずぶ濡れになって逃げ惑った。長居公園には、陸上競技場以外に、これだけ多くの人々を収容できるさしたる建物も無く、人々は陸上競技場に走り、「入れてくれ!」と懇願した。しかし、係員は「ダメだ!」と扉を閉めて入れなかった。岩永牧子は、この入れてもらえなかった人々の一人である。
⑤ 公園の中の道路は、豪雨の為、川の様になっていた。猛烈な雷の中、その“川”の中を歩くこともできず、人々は悲鳴をあげながら、木立ちの中を逃げ惑った。岩永牧子は、この逃げ惑う途中14時10分から15分頃友人と共に落雷の被害に遭ったのである。
⑥ 14時25分頃、東住吉警察署から2名の警察官が自転車で来たが、水溜りの中で倒れている岩永牧子と友人に対し、何等の救急救命処置も施さず見ているだけであった。14時40分頃、東住吉警察署から更に4名の警察官が自転車で来たが、やはり被災した2人を眺めているだけであった。14時55分頃、覆面パトカーで警察官2名が来たが、やはり救命処置は一切せず、水溜りに倒れている2人をただ眺めていた。
⑦ 15時10分頃、救急車1台が来たが、真っ黒焦げになって、煙まで出ており、素人目にも即死していると分かる友人の方のみを搬送して行った。そして素人目にも気絶しているだけで生きていると分かる岩永牧子の方を放置して行ったのである。その場にいた人々は「この子(岩永牧子)の方が先だろうが!」と叫んだが、救急隊員は無言で聞き入れなかった。又、救急車はその場に10分程止まっていたが、岩永牧子に対し、何等の救命処置も施さなかった。
⑧ 岩永牧子と被災する直前迄、言葉を交わしていた人は、次の救急車が来るのをまだか、まだかと時計を見ながら、やきもきして待っていたが、自らもずぶ濡れになって震えが止まらなくなったので、後髪を引かれる思いをしながら、その場を離れた。その時、時刻は午後4時を少し過ぎており、何百人か何千人かの人々が水溜りの中で倒れている、岩永牧子の周りを取り囲んでいた。
⑨ 岩永牧子は、大阪医療センターに運ばれたがその正確な時間は不明である。救急車の中では、心肺停止の状態であったが、病院到着時には、心拍が再開し、血圧70/45mmHgであったと記録されている。又、到着時消失していた瞳孔の対光反射も確認され始め、自発呼吸も出始めてきたとの記載もある。しかし病院は、1時間に3000mlの「大量輸液」を行うとの方針を立て、2012年8月18日16時46分から同年8月19日6時48分までの約14時間に70,000ml以上の輸液をしたのである。      そして、岩永牧子は8月19日6時49分に死亡した。その時全身は、パンパンに膨れあがり、一見して誰なのかが分からない様な形相となっていた。 (二)違法性
(1)主催者 エイベックス・ライブ・クリエイティブ株式会社及び株式会社ミューベンツ・ジャパンの「未必の故意による殺人罪」について
2012年8月18日音楽会当日14時少し前から雷が鳴り出し、雨が降り出した時に、主催者側の係員が公園内の建物に客等を入れなかったのは、13時30分頃、主催者から係員に対し「雷雨が来るから客を会場にいれるな」との指示があったからとのことである。雷が鳴っている時に、外に立っていると落雷により死亡する危険が高いことは常識である。主催者は客に雷が落ちて死んでも構わないと思っていたから、係員に「建物に入れるな!」と指示をしたのであり本件は、「未必の故意による殺人」に該当する。
尚、主催者側の係員が人々を公園内の建物に入れなかったことについて、一般の大阪市民多数が、公園事務所や東住吉警察署に赴「長居公園は大阪市民の災害時避難場所に指定されている。物凄い雷雨で生命の危険に曝されている時には音楽会等のチケットの有無にかかわらず避難して来た人々を建物に入れるべきではないか。それを一民間人である主催者がいれないと云うのは許せない。」と抗議したそうである。
(2)大阪市消防局長及び東住吉警察署長の「保護責任者遺棄等罪」について
物凄い雷雨の中、建物の中に入れてもらえなかった岩永牧子他1名は、他の多くの人々と逃げ惑う途中落雷の被害に遭い、意識を失って倒れた。その場所は雷雨の為、池の様になった水溜りの中であった。やって来た東住吉警察署員等は、水の中で倒れている2人を見て、何の保護もしようとしなかった。何故せめて乾いた所に運んであげようとか、救急車が間に合わないなら、警察の車ででも近くの病院に運んであげようとかしなかったのであろうか。被災から1時間程経ってやって来た救急車は何故素人目にも死亡していると分かる人の方を乗せ、まだ生きている人を乗せなかったのか。しかもまだ生きている人に何の応急処置も施さず、冷たい水の中に放置したまま行ってしまったのか。岩永牧子は、午後4時過ぎには、まだ倒れていたとの証言があるので、結局被災して倒れてから2時間以上、水溜りの中に放置されていたことになる。消防局の救急隊員や警察官は、本件のような生命の危険に曝されている人を保護する責任がある。しかるに本件では、その保護をせず、2時間以上も放置したのである。
本件は、事件全体からみて、救急隊員や警察官個人の罪とは考え難く、その長たる大阪市消防局長及び東住吉警察署長に罪があると思料する。
(3)大阪医療センター長の「殺人罪」について
大阪医療センターは、岩永牧子に対し、「大量輸液」を施行し、同人を死に至らしめたのである。そもそも輸液は水分が充分摂れない場合や手術等で出血したりして水分が失われた場合に行うものである。従って、その輸液量は足りない水分を補う範囲に限られる。一般に1日の必要輸液量は維持液量+補充液量とされ、維持液量は、不感蒸泄(10ml/kg/日)+尿量、補充液量は喪失量である。体重50kgの人であれば、1日の不感蒸泄分は約500mlということになる。又、輸液は心臓に負担をかけるものである上、一旦入れると回収することは難しく、殆ど不可能に近いので、入れ過ぎは絶対してはならず、少し足りない位に入れるというのが常識である。
本件の岩永牧子は、健康な若い女性で被災する直前まで食餌を充分に摂取しており、且つ出血等水分を失う要因は全くなかった。従って輸液の適用はなかった。更に岩永牧子は、落雷のショックにより、心臓が一時停止している。それがようやく動き出し、血圧も70m/45mmHgまで回復するに至ったが、心臓はまだ本調子ではなく、厚い庇護が必要な状態であった。
このような状態の中で、大阪医療センターは1時間に3000ml即ち1日(24時間)に72,000mlという驚くべき大量輸液の方針を立て、実行に移した。因みに岩永牧子の尿量は0であったとの記載がある。

岩永 さんのコメント...

しかし病院は、1時間に3000mlの「大量輸液」を行うとの方針を立て、2012年8月18日16時46分から同年8月19日6時48分までの約14時間に70,000ml以上の輸液をしたのである。      そして、岩永牧子は8月19日6時49分に死亡した。その時全身は、パンパンに膨れあがり、一見して誰なのかが分からない様な形相となっていた。 (二)違法性
(1)主催者 エイベックス・ライブ・クリエイティブ株式会社及び株式会社ミューベンツ・ジャパンの「未必の故意による殺人罪」について
2012年8月18日音楽会当日14時少し前から雷が鳴り出し、雨が降り出した時に、主催者側の係員が公園内の建物に客等を入れなかったのは、13時30分頃、主催者から係員に対し「雷雨が来るから客を会場にいれるな」との指示があったからとのことである。雷が鳴っている時に、外に立っていると落雷により死亡する危険が高いことは常識である。主催者は客に雷が落ちて死んでも構わないと思っていたから、係員に「建物に入れるな!」と指示をしたのであり本件は、「未必の故意による殺人」に該当する。
尚、主催者側の係員が人々を公園内の建物に入れなかったことについて、一般の大阪市民多数が、公園事務所や東住吉警察署に赴「長居公園は大阪市民の災害時避難場所に指定されている。物凄い雷雨で生命の危険に曝されている時には音楽会等のチケットの有無にかかわらず避難して来た人々を建物に入れるべきではないか。それを一民間人である主催者がいれないと云うのは許せない。」と抗議したそうである。
(2)大阪市消防局長及び東住吉警察署長の「保護責任者遺棄等罪」について
物凄い雷雨の中、建物の中に入れてもらえなかった岩永牧子他1名は、他の多くの人々と逃げ惑う途中落雷の被害に遭い、意識を失って倒れた。その場所は雷雨の為、池の様になった水溜りの中であった。やって来た東住吉警察署員等は、水の中で倒れている2人を見て、何の保護もしようとしなかった。何故せめて乾いた所に運んであげようとか、救急車が間に合わないなら、警察の車ででも近くの病院に運んであげようとかしなかったのであろうか。被災から1時間程経ってやって来た救急車は何故素人目にも死亡していると分かる人の方を乗せ、まだ生きている人を乗せなかったのか。しかもまだ生きている人に何の応急処置も施さず、冷たい水の中に放置したまま行ってしまったのか。岩永牧子は、午後4時過ぎには、まだ倒れていたとの証言があるので、結局被災して倒れてから2時間以上、水溜りの中に放置されていたことになる。消防局の救急隊員や警察官は、本件のような生命の危険に曝されている人を保護する責任がある。しかるに本件では、その保護をせず、2時間以上も放置したのである。
本件は、事件全体からみて、救急隊員や警察官個人の罪とは考え難く、その長たる大阪市消防局長及び東住吉警察署長に罪があると思料する。
(3)大阪医療センター長の「殺人罪」について
大阪医療センターは、岩永牧子に対し、「大量輸液」を施行し、同人を死に至らしめたのである。そもそも輸液は水分が充分摂れない場合や手術等で出血したりして水分が失われた場合に行うものである。従って、その輸液量は足りない水分を補う範囲に限られる。一般に1日の必要輸液量は維持液量+補充液量とされ、維持液量は、不感蒸泄(10ml/kg/日)+尿量、補充液量は喪失量である。体重50kgの人であれば、1日の不感蒸泄分は約500mlということになる。又、輸液は心臓に負担をかけるものである上、一旦入れると回収することは難しく、殆ど不可能に近いので、入れ過ぎは絶対してはならず、少し足りない位に入れるというのが常識である。
本件の岩永牧子は、健康な若い女性で被災する直前まで食餌を充分に摂取しており、且つ出血等水分を失う要因は全くなかった。従って輸液の適用はなかった。更に岩永牧子は、落雷のショックにより、心臓が一時停止している。それがようやく動き出し、血圧も70m/45mmHgまで回復するに至ったが、心臓はまだ本調子ではなく、厚い庇護が必要な状態であった。
このような状態の中で、大阪医療センターは1時間に3000ml即ち1日(24時間)に72,000mlという驚くべき大量輸液の方針を立て、実行に移した。因みに岩永牧子の尿量は0であったとの記載がある。又、大量輸液の途中、腹部膨満等浮腫が出てきたので、除水したとしているが、その量は977mlに過ぎず、死亡する直前迄の輸液量 約70,000mlからすれば0に等しい。
この様に岩永牧子には、輸液の適用はない上、心臓が弱っているので、できるだけ心臓に負担をかける様な輸液は控えなければならないのに1時間に3000mlという驚くべき大量輸液を施行し、死に至らしめたのである。尚、1時間に3000mlの割合で輸液を続ければ、全ての人は死ぬであろう。これは明白な殺人である。
この場合も、医療センター職員個人の罪とは考え難く、その長たる者の罪であると思料する。
四、本件の背景
(1)賠償問題      一般に大勢の人を集めた催しで、死傷者が出た場合、死亡者には何千万円かの賠償金で済むが傷害者は障害が残った場合、一生補償しなければならないこともあり、何億円もの金がかかることがある。  それ故、その様な傷害者は殺してしまうというのが、裏社会の通則になっている様である。本件では、岩永牧子は、被災して水の中に倒れているのに救急車や警察は何もせず、2時間も放置された。それでも死ななかったので、病院へ運ばれ、止めを刺されたのである。尚、当日15時36分という岩永牧子がまだ公園の水溜りの中で倒れている時に、病院から告訴人に電話があった。この事実は主催者と消防局、警察及び病院の関連性をうかがわせるものである。
又、本件の催しは、10億円以上の収入が入っている筈であり、
後ろには、大物政治家がいると云われている。

(2)民事訴訟告訴人は主催者を被告として、「損害賠償請求事件」を提訴した。
しかし、告訴人の訴訟代理人は、主催者の係員は雷雨が始まるといち早く逃げてしまい、客を指示、誘導して避難させなかったこと及び避難場所となるべき建物の扉を閉めて客を入れなかったこと等、重大事実を一切主張しなかった。そうすると、次の様になる。“主催者の係員は適正に指示誘導しており、建物内へも自由に入れた。にも拘らず、岩永牧子は係員の指示誘導に従わず建物にも自由に入れるのに入らず、勝手に木の下に立っていた。故に落雷の被害に遭ったのは、自己責任である”と。二審で訴訟代理人は第一回口頭弁論期日を告訴人に前以て通知せず前日の午後になって突然通知してきた。告訴人は法廷内に入り、この弁論期日の事及び一審で主張されなかった重大な事実を主張したいから、弁論を続行して欲しい旨申し出たが、聞き入れられず、1回で弁論を終結された。即ち、二審判決も又一審判決と同様に重要な事実が隠されたまま為されたもので、まともな判決ではない。
(3)告訴人は本件の真相を知る為、当時長居公園にいた人々に話を聞きに回った。 すると奇妙なことを耳にした。当時のことを知っていると思われる。人々が変死したり、行方不明になっているのであるある人は殴り殺されたことは、素人でもわかるのに転んで死んだとされ、ある人は、踏み台も何も無いのに木に吊るされているだけで、自殺とされている。何処かで殺して木に吊るして置いたのだろう。告訴人も本件が始まってから、色々な嫌がらせをされ、生命の危険を感じることもしばしばあり、多数の防犯カメラを設置している。陰で犯罪が横行しているということは、不正が行われていることの裏返しである。
詳しくは、岩永牧子の母の岩永和子のブログへ ➡ http://pmc-kitakyushu.com/makiko-i/

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